市民社会の成員としての個人に求められる政治的教養・学力について、学校をめぐる現状から出発して、政治的自己決定を可能にするような判断力および、それを保障する理性的認識能力の必要性を論じた。その際に、シティズンシップ・エデュケーションが要請するような、卜一タルでバランスのとれた知識の重要性も同時に強調している。
筆者に与えられた課題は、市民社会の成員としての個々の市民にとっての教養と学力とは、どのようなものであろうかということになる。だが、その前に少々学校の現状とあり方に関する筆者の社会学的な認識を述べておきたい。現代の社会は、近代化にともなう社会の機能分化の進展により、より複雑な仕組みとなってきている。その高度に複雑化した社会を理解するためには、教育期間が長期化するのは避けられない。実際、社会の変化に付随する形で、近代以降、教育の機会が長期にわたって提供されるようになってきたということができるだろう。
しかし、社会の基本的な仕組みを理解するための期間が長期化していく一方で、学校への求心力が、近年急速に低下しているといえる。その原因は、かつてのように教育を受けることが同時に社会的な上昇を意味するのではないことが、明白になったからであろう。確かに、大人の多数は依然として学歴・業績を重要だと考えているが、学校教育を受けている当の子供たちにとって、もはや学歴が到底社会上昇の手段たりえてはいない。こうしたギャップから、今日多くの子供たちの学校へ行く動機は、大変薄弱になっている。それがまた、最近の学校をめぐる数多くの問題の、重要な要因の一つとなっていることは、ほぼ間違いないのではないだろうか。
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このような相反する傾向のなかで、教育をどのように位置づければよいのだろうか。社会上昇の手段に代わって、なにが学校へ行くことの動機づけとなるのだろうか。しかも、社会生活にとって必要な知識は、社会の機能分化にともなって増大していっているため、これを習得する機会を提供する学校教育は、それに応じて長期化せざるをえなくなっているのである。
学校へ行くこと、教育を受けることの、これまでの支配的な価値観に代わる、重要な動機としては、おそらく自己表現ということではないだろうか。これは、自らの潜在的な能力の発達を追求するものであり、その限りでは社会的目的と合致させる必要はない。また、それは社会に適応するための一定の知識を前提とするものの、特定の年代までを対象とするものではないので、その点で生涯学習という理念にもかなっているといえる。
ここで論じるべき政治的な意味での教育も、このような文脈に位置づけることができるだろう。社会的上昇のための手段ではない、自己表現の方途の一環として、政治のための教養・学力を論じる必要がある。つまり、政治的意思決定の場である市民社会において、その個々の成員が自らの意志・行動を自らの責任と判断で決定しうる可能性を開化させることが、その理念となる。そのために必要となる知識が政治的教養であり、そのための教育が、言葉の本来の意味での政治教育ということではないだろうか。
だが、そうはいっても、この政治的自己決定の主体としての市民を育成するということは、基本的には社会の仕組みを理解することに属するだろう。自らの意思を表明し、それをもとに判断を下すという点では、自己表現といえるが、それと同時に民主主義社会にとっては、このような能力を個々の市民が備えることが、社会をうまく機能させるのに必要となる。これが民主主義をより徹底化させることであり、現代民主主義論の主要な論点ともなっている。
こうした二つの側面を、うまくバランスをとりながら展開させることが、政治のための教育に求められる。従って、自己表現を図るという文脈でそのモチベーションを確保する一方で、社会生活に必要な知識をどのように獲得するのかが問題となる。このこと自体は教育に一般的に当てはまることであり、その意味ではリテラシー(識字能力)の問題と同じ性質といえるであろう。また、個人の自己表現を図るということと、社会を構成するほかの成員、つまり他者との共存・共生を確保していくということとの両立は、すでに著しく政治的な問題となっているのではあるが。
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では、政治的自己決定の主体としての市民・個人を確立するための用件とは、どのようなものであろうか。民主主義が望ましい形態で機能するためには、自立した個人が求められるのだが、それが政治的教養・学力の前提であり、政治教育の最低限の目標となるであろう。そのためにまず求められるのは、さまざまな政治的問題に対する態度を示すことのできる判断力であり、そうした判断を下すための理性的認識能力であろう。これらの能力自体は、なにも政治的生活にだけ求められる資質ではない。むしろ教育において普遍的に求められる資質であろう。
こうした意味での政治教育は、特殊な教育を施すことではない。また政治的教養とはこうした判断力を確保するための知識のことなのであり、そのための学力が意図するのは、こうした判断を下すための認識能力であり、推論のための能力のことなのだといってよかろう。
次にその内容が問題となるが、具体的にどのようなものであろうか。まず指摘できることはバランスの取れた知識、すなわち科学的・学問的意味での知識と、市民・公民として求められる日常の生活の実用的な知恵の双方を備えたものが必要であるということである。その際に実用的なものとして求められるものとして、卑近な例を挙げるとするならば、税金をどのように支払うのか、社会保障は恩恵ではなく権利であるとかいったことであろう。また、日常生活におけるジェンダー関係や、生活者・消費者としての主体性をどのように確立するかといったことも重要であろう。
これらの事柄は現在では主として家庭科(この名称自体は問題があるが)で教えられており、その意味ではこの教科はもっと重要視されても良いのではないかと思う。しかし、こうした実用的な知恵という考えは、文科省が主張しているような生きる力ということとは本質的に異なる。そこで想定されているのは反知性的なものであり、民主主義にとって脅威となりかねない。
それというのも、民主主義社会に必要な政治的判断には、科学的洞察力や知性が不可欠だからである。これらの能力が物事を分析的・客観的に判断するための理性的認識を保証するのである。その意味では、知性を欠いた生きる力は、民主主義社会における主体としての市民個人の資質とはいえないであろう。たからこそ、科学的・学問的な知と実用的な知とのバランスが大切となる。
こうした観点からすれば、現在の学校教育で実行されているカリキュラムは、いささか無駄が多い気もする。自己決定の前提となる判断力と、それをもたらす理性的認識能力の育成を軸にして、思い切ってスリム化するのも考えられる選択肢ではないだろうか。いずれにしても、ここで述べたような課題は、近年着目を集めつつあるシティズンシップ・エデュケーションといった視角、つまりトータルな市民性を育成するということが、今後ますます重要になっていくであろう。(きたむら・ひろし:(財)政治経済研究所、政治学・政治思想)
『日本の科学者』vol.37 No.11(2002年11月発行)より